安心の欠如

 月1で通っている心療内科に行った。前日に夫と言い争いがあったため、フラフラの精神状態だった。全然人と会いたくないな、なんてどんより思っていた。普通に話せる自信もなかった。

 毎月の如く医師から「ここ最近どうですか?」と聞かれたので、正直によくない旨を伝える。過食がひどく、皮むしり症も悪化していること。朝起きるのが辛く、夕方には体が鉛のように動かなくなり、もう全部辞めたいと思うこともあること。あまり正確には覚えていないが、できるだけ素直に言葉にして伝える。メモをとりながら、「そうですか。」という医師の穏やかな顔が少し険しい顔になっていくように感じる。気のせいかもしれないが、やはり医師といえど人間である。よくない、と言われると、そうなってもおかしくはないだろう。

 

 心の診察とは難しいな、と思う。

患者が自覚的に言わないこと、隠すことなども含め医師は判断しないといけない。

私も症状を伝えるときに、相手が医師とはいえ「ここから先は伝えるのが怖い」と思うことも多々あるので、言える範囲で少しずつ言葉にはしているのだけれど、病状を判断できているのだろうかと不安に思わないこともない。

 

 そういう思いと医師から自分の症状についての詳細を聞いたことがなかったこともあり、今の状態を知りたいと伝えると、「安心の欠如と不安かな」と言われたのだった。鬱よりも、安心感の欠如が根っこにあるという。それは薬だけではどうにもならないものであるらしく、カウンセリングを勧められた。思考の整理の一助にはなるとのことだった。

 

 カウンセリングを勧められたのはこれが初めてではない。兄の事件があった後、兄はカウンセリングに通っていたようだった。本当は家族全員のカウンセリングが望ましいと伝えられたようだが、賠償金や裁判の費用、兄がこさえた借金や辞めた専門学校の学費、私の学費など、当時の家では内科すらまともに受診させてもらえなかった。カウンセリングって高額だよな・・・と思い、受付の方に金額を聞くと、診察後のものなのでそこまで高額にはならないという。今なら受けることはできる。けれど、正直怖さもある。向き合うのが怖いのだ。とりあえず、すぐに予約は入れずに家に帰った。

 

 安心できる場所、ってあるかな。発熱した次男を看病しながらそんなことをぼんやり考える。なんで、どんな場所にいても、誰といても一人ぼっちだって思ってしまうんだろう。ずっと、ひとりぼっちじゃなかったはずなのだ。(きっと側には誰かがいてくれたのだ)

そう感じてしまうことが、今一緒に暮らしている人たちへの冒涜だと思うこともある。言葉じゃ全くうまく言えやしないけど。そんなことはみんな持っている感覚なのかもしれないし、今更何?人はみんな孤独なの、何ジタバタしてんのよ、て話なのかも。(すぐ話が逸れる)

 子供を寝かしつけながら、私はこの子たちの安心できる場所になれているのだろうか、とふと考える。そうであれればいいなと思う。今私が安心できていなくても、この子達はせめて安心して暮らしてほしい。