生きのびてきた私に祝福を

1月19日

 誕生日。38歳になった。朝から少し泣いたので今日は好きなことしかせんぞと決める。

 仕事も休みだったので隣町の本屋に行った。数年前に行ったきり行けてなかったけど、狭い空間に本がぎっしり詰まっていて、それだけで気持ちが少し上向きになる。知人が働いていると知っていたので少し緊張している自分に気づく。何を話していいかわからなくなるのだ。それは相手が誰であっても同じこと。黙っていられたらいいのに、人を前にするといつも不安から喋りすぎてしまう。それでも、『鬱の本』はここで買いたいなと思ったから来たんだったと思い直す。たどたどしいおしゃべりに付き合ってくれて感謝しかない。ありがとう、お守りにします。

 2日間、ここぞとばかりに本を買った。物語が少なかったような気がする。今、必要と思えるものや興味があるもの、軽く読める漫画に手が伸びた、そんな感じだ。もうずっと調子が悪くて本を読めてなかったのだけれど、最近は少しずつ読めている。

 午後からは心の診察に行った。日記をつけ始めたことなどを伝える。先生曰く、人は悲しい出来事の方を強く覚えていてしまうということだった。記憶はオセロみたいなもんなんです、とも言われた。嫌な出来事が黒、いい出来事が白とすると、黒に挟まれた白は黒になっちゃうみたいな感じに近いとのこと。だから、ちゃんと白も存在したのだと認めることが大事なんだよ、とのことだった。書くことは、日々の感情の発見や整理にはとても役立つらしい。カウンセリングについては、もう少し今の症状が落ち着いたら・・・ということになった。人との距離がよくわからないこととか、本音を伝えるのが怖いとかそういう話をポツポツとした。

 帰り道、私が感じる怖さとか不安はどこからくるんだろうと考えてみた。それは「私が私らしく存在すると、周囲の人を悲しい思いにさせてしまう」という思い込みというか囚われからなんだな、と気づくことができた。だから、こうやって書いていても人が読むと思うと怖さから抜け出ることがなかなかできない。それでも書きたい、読んでほしい、表現したいと思うのは、業なのかもしれない。寂しがりで、欲張りなんだろうと思う。書くことそれ自体は、私にとって居場所になりつつあって、書いていることで生きていけそうな気がしている。ここでなら本音を言える、そういう場所が誰しも必要なのだと思う。無理せずに、書きたいときに書けばいい。本も読みたい時に読めばいい。人と話したくなければ黙っていよう。それで離れていっても知るか、くらいに思いたい。大事なのは、自分の声に耳を傾けることだ。少しでも今日できたこと(何もできなかったとしたら、布団にくるまりながら息はしたな、ぐらいでもいい)を認めながら生きていたい。誰に何を言われようと、私は私を手放さないでいよう。たまには全力で逃避してもいいじゃないか。ここまで生き延びてきた自分を今日はただただ褒めてあげたいと思った。

 

嫌い - YouTube

no title (2024.01.15)

朝7時。起きたはいいけど、立ち上がれない。仕事に行く気にならない。休んでずっと寝ていたいと思うが、子供達がいるのでそうもいかない。6歳の長男は朝に強いためサッと起き上がってくるが、4歳の次男はものすごく寝起きが悪い。起き上がってきても、食べるまでに30分ほどぐずぐず。朝ごはんもやる気がなく、今日は超塾のコッペパン、市販のコーンスープ、フルーツヨーグルト、ゆで卵、牛乳。ご飯を炊く元気もない。化粧も、BBクリームを塗って眉を描いたのみ。長くなってきた髪を一つに結う。仕事着はほぼ決まっているので思考放棄で準備。ご飯を食べている時に、次男に昨日のことを謝る。昨日の夜は津市のひびうたで開催された本の会に参加したのだけれど、途中で夫から電話があり、次男が「お母さんがいいーーーーーー!」と泣いているから聞けとのことだった。いや、行っていいって言ったのはあんたらやんけと心でツッコミを入れながら、「お母さんがいいんだねえ」とひびうたの駐車場でただ聞くしかできなかったのだ。求めてくれるのは嬉しいけれど、離れたい時もある。ただ、泣き声にはいつも罪悪感を感じてしまう。罪悪感を感じろ、という夫の意図も透けて見えて少しゲンナリしてしまう。

 

幼稚園に送り届け、9時半から14時まで仕事。某ホームセンターで働いている。

今日はとてつもなく風が強く、風除室があるとはいえ扉が開くたびに強風が入ってくる場所にレジがあるため、芯から冷えた。この職場にパートで勤務し始めて9ヶ月目。職場は社員以外はほぼ女性(大学生の男の子が二人いるくらい)だ。比較的サバサバとした女性が多いのだけど、一人とても苦手な人がいて、その人も多分私を嫌っている。理由はよくわからない。わからないのだけど、いつも職場で私は女性に嫌われがちだ。他の方は、私だけにそういう態度なわけじゃないからと慰めてくれるが、毎日挨拶をしても無視されるのが続くとちょっと堪える。基本的に暇な時間も多く、急に子供のことで休んでもみんな優しく対応してくれるのでもう少しここで働こうとは思っているが、挨拶無視が正直じわじわ悪い方に効いてきている。メンタルがやられている時は、「すいません、もうやめます」と社員に伝えたくなる。こういうことを、誰に相談すれば良いのかよくわからない。そもそも職場の人に心をひらけない自分がいる。

 

仕事が終わって少し時間があったので、職場近くの喫茶店で遅めの昼ごはんを食べた。サンドイッチランチで贅沢。床がベタベタしていて、多分ここにはもう来ないなと思う。60歳くらいのおじさんが、鉄板ナポリタンを食べながら店員に大声でいちゃもんをつけていた。お互い大変やね、ご苦労様です、と思う。

 

15時過ぎ幼稚園のお迎え。子供達が園庭で遊びまわっている。子供たちは風の子、元気そのもの。こんな寒さではへこたれん。

お母さん方はその周りをぐるりと囲むようにしておしゃべりをしている。私にはママ友と言えるほど仲良しの人がいない。というか、別にいなくてもいい、と思っているのでそそくさと車へ。(流石に知り合いがいたら挨拶ぐらいはする)

子供を介して仲良しになってもいいことがないだろうと思い込んでる節が私にはある。一人、名古屋の方に引っ越してしまったお友達がいるけれど、その方と未だに仲良くしてもらってるのは奇跡と言ってもいい。友達、って一体何?親友ってなに?どうやって作るの?もうすぐ38歳やけど全然わからない。

 

帰り際、近くのスーパーで花と食料品を買う。

白い名前がわからない花。チューリップもあったけど、なんだかまだ春には早い気がしたのでスルー。ちなみにチューリップは黄色が可愛くて好きだ。部屋がパッと明るくなるから。

名前の知らない花をセリアで買った花瓶に生ける。茎を切ると、何この匂いっていう臭さだった。見た目は可愛いのに残念な花だ。キッチンのそばに飾ったが、このまま臭くなったら躊躇なく捨てようと思う。

 

晩御飯は昨日の残りのキーマカレー。チーズ乗っけてドリアにする。

敷地内同居の義母がコロッケをお裾分けに持ってきてくれた。地味に助かる、ファインプレー。子供達はサンタクロースにもらったマイクラに夢中。マイクラのいいところは、ゲームをしてても静かなこと。あと、たまに流れるアンビエントみたいな音楽が結構心地よい。でも「命いっただきまーす♩」と言いながら豚を殺している4歳ってどうなんだ、とも思う。何が教育的に良くて悪いのか、私は到底わからない。

 

ごはんを食べ終わり、日記を書く。このブログには、エッセイや物語が混在しているので棲み分けが良くわからなくなってきた。日記にはタイトルつけるの面倒くさいから、自分の日記をつらつら書くときはno titleでいいやと思う。そんくらいハードルを下げて、できることを少しずつやる工夫が私には必要かもしれない。頑張りすぎず、続けることが大事な気がする。すぐパンクしちゃうから。ゆるくいこう。

 

 

 

 

昼間を真夜中にする

「ああ、もういなくなりたいんだよ、全てが面倒くさくなっちゃって。働くのも、働きなさいよと家族に言われるのも。こんなこと、ここでしか言えないけれど」と彼は言った。

 

昼間のラブホテルの一室で、真夜中みたいに部屋を暗くしてひたすらに抱きしめ合う。それしか営み方を知らない動物のように。

 

冬の乾燥のせいで、髪や皮膚を掻きむしるたびに、彼の体からはふけがパサパサと落ちた。顔も、体もぼろぼろだ。抱きしめると私の黒いニットには、それらが付着する。でもそんなことは気にしない。「大丈夫」と言い聞かせ、背中を撫で続ける。

 

働けなくなってしまったこと、病でのたうち回ること、家族への苛立ち。それらの諸々でわたしたちはとうにぶっ壊れてしまっていること。

ぽつぽつと、真っ暗な空間に漂いながら打ち明けあう。

きっとこんなことは他の誰にも伝えられない。

皮膚を重ねて、体温を感じたからこそ溢れでる言葉たち。「ねぇ。このまま、ふっと世界から退場したいと思ってしまうね」と、彼が言った。それも悪くない。腕の中でただ眠り続けたかった。

 

帰りの車の中で、彼はPAVEMENTの『Brighten the Corners』をかけた。「このパート、かっこいいね」「うん、かっこいい。」「ファースト持ってるよ」「ふぅん」なんてしゃべりながら郊外の街を走った。曇り空がどこまでも、ただどんよりと続いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グラデーションの中で生きる(きっとあたたかな冬)

気づけば年末。ブログを書こう書こうと思いながら寝落ちの毎日。

今年は仕事を始めたこともあり、12月後半はなかなかに忙しかった・・・。

 

25日まではクリスマス準備、26日からは大掃除(もはや終わらないので諦めた)、そして29日で仕事を納めて30日からは大阪に帰省だ。目が回る。私も子供達も風邪の後に咳が治らず、帰省できるか半ば諦め気味だったのだが、最近母が虚血性腸炎になったので年末は実家のおせち作りと掃除のため帰ることにした。三重と大阪間はそんなに遠くないといえ、仕事や学校の都合で帰省できるタイミングって実はそう多くないのだ。父母は孫にはただただ甘いジジババなので、できるだけ帰れる時は帰ってふれあいを持って欲しい。そう考えてしまうほどに、父も母も歳をとってきた。

 

 子供と一緒にクリスマスツリーの準備をしたり、年末の掃除をしていると、冬には暖かい思い出がたくさんあるなあなどとふと思う。

実家には100センチくらいのクリスマスツリーがあって、飾り付けをしながらサンタが来るのを幼い頃はワクワクしながら待っていた。サンタのプレゼントにはいつも手紙が添えられていたことや、プリントゴッコで印刷された年賀状で和室が溢れたこと、家族でした凧揚げ、などなど。あ、正月はお年玉をもらえたり、それが終わると自分の誕生日がくることも大きい。誕生日には大好きなエビフライと市販のスポンジにキウイやみかんの缶詰でデコレーションされたケーキを母が作ってくれた。

前回書いたブログには家族についての苦しい思い出を書いたが、幼少期にはあたたかい思い出が多く存在していて、父母は私に愛情を注いでくれてもいたのだなあと思ったりするのだ。

 

 燃え殻さんのラジオ『BEFORE DAWN』で朗読されたエッセイで、人は誰かにまだらにしか優しくできないし、完全な悪や正義などではなくグラデーションの中で生きているものだ、とおっしゃっていてすごくハッとした。

優しくできる時もあれば、ひどく傷つけてしまう時もある。傍観して、ただなす術がないこともある。父親母親の前に、一人の人なのだ。そう考えるようにしても痛みが消えない時もあるが、そう思うよう心がけている。

 

なす術がなかったといえば、子供づれでスーパーに行った時のことだ。3歳ぐらいの男の子が母親に向かって大泣きして暴れていた。母親は通路の端から睨みつけながら「何してんの!早くきなさい!」と怒鳴るだけで、他の客もその親子を見て見ぬふりしていた。

息子たちは、オロオロとどうしたらいいのだろうかと考えたりしていたようだった。下の子はその子の後ろまで行き、「お母さん、この子泣いてる」と私に動揺しながら伝えてきた。

私はただ何もできずに、何かできるのだろうかと考えるだけで、何もしなかった。

「ほんとだね、泣いてるね。お母さん、迎えにきたらいいのにね。」と子供に伝えるだけが精一杯。あの時、私は完全にあの子の鳴き声を無視したのだ。まだらに冷たくしてしまった。

こういう場面に出くわした時、できることって何かあるだろうか。未だに答えが出ないでいる。

 

いい案、思い浮かんだら教えて欲しい(他力本願)

他力本願でもなんでもいいから、本当に少しずつまだらに優しくできることが増えたらいい、そんなことを考え続けている。

 

こんな調子で、今年最後です。良いお年をお迎えください。

皆様にとって、あたたかい冬になりますように。

 

 

安心の欠如

 月1で通っている心療内科に行った。前日に夫と言い争いがあったため、フラフラの精神状態だった。全然人と会いたくないな、なんてどんより思っていた。普通に話せる自信もなかった。

 毎月の如く医師から「ここ最近どうですか?」と聞かれたので、正直によくない旨を伝える。過食がひどく、皮むしり症も悪化していること。朝起きるのが辛く、夕方には体が鉛のように動かなくなり、もう全部辞めたいと思うこともあること。あまり正確には覚えていないが、できるだけ素直に言葉にして伝える。メモをとりながら、「そうですか。」という医師の穏やかな顔が少し険しい顔になっていくように感じる。気のせいかもしれないが、やはり医師といえど人間である。よくない、と言われると、そうなってもおかしくはないだろう。

 

 心の診察とは難しいな、と思う。

患者が自覚的に言わないこと、隠すことなども含め医師は判断しないといけない。

私も症状を伝えるときに、相手が医師とはいえ「ここから先は伝えるのが怖い」と思うことも多々あるので、言える範囲で少しずつ言葉にはしているのだけれど、病状を判断できているのだろうかと不安に思わないこともない。

 

 そういう思いと医師から自分の症状についての詳細を聞いたことがなかったこともあり、今の状態を知りたいと伝えると、「安心の欠如と不安かな」と言われたのだった。鬱よりも、安心感の欠如が根っこにあるという。それは薬だけではどうにもならないものであるらしく、カウンセリングを勧められた。思考の整理の一助にはなるとのことだった。

 

 カウンセリングを勧められたのはこれが初めてではない。兄の事件があった後、兄はカウンセリングに通っていたようだった。本当は家族全員のカウンセリングが望ましいと伝えられたようだが、賠償金や裁判の費用、兄がこさえた借金や辞めた専門学校の学費、私の学費など、当時の家では内科すらまともに受診させてもらえなかった。カウンセリングって高額だよな・・・と思い、受付の方に金額を聞くと、診察後のものなのでそこまで高額にはならないという。今なら受けることはできる。けれど、正直怖さもある。向き合うのが怖いのだ。とりあえず、すぐに予約は入れずに家に帰った。

 

 安心できる場所、ってあるかな。発熱した次男を看病しながらそんなことをぼんやり考える。なんで、どんな場所にいても、誰といても一人ぼっちだって思ってしまうんだろう。ずっと、ひとりぼっちじゃなかったはずなのだ。(きっと側には誰かがいてくれたのだ)

そう感じてしまうことが、今一緒に暮らしている人たちへの冒涜だと思うこともある。言葉じゃ全くうまく言えやしないけど。そんなことはみんな持っている感覚なのかもしれないし、今更何?人はみんな孤独なの、何ジタバタしてんのよ、て話なのかも。(すぐ話が逸れる)

 子供を寝かしつけながら、私はこの子たちの安心できる場所になれているのだろうか、とふと考える。そうであれればいいなと思う。今私が安心できていなくても、この子達はせめて安心して暮らしてほしい。

 去年の夏頃、誤魔化し続けて来た心身の不調に耐えかねて心療内科を訪ねた。今回が初めてではない。以前も何度かお世話になってきたが、回復しては病院に行かなくなることを繰り返していた。

 

 家から車で15分ほどの心療内科は、住宅街の中にひっそりと立っていた。見た目はお世辞にも綺麗とは言えない建物で、一抹の不安を感じてしまったのだが、予約しているのだからもう引き返せないと心を決めた。そそくさと受付を済ませ、窓から陽が差し込むソファーの端で待つことにした。名前を呼ばれ診察室に入ると、四角いメガネをかけた初老の男性がペンをもち、カルテを広げにこやかに座っていた。60代だろうか、穏やかそうな物腰の医師にホッとする。「少し、しんどくて」ということをポツポツ話していくと、現在の生活環境や生育歴などを事細かに聞いてきた。医師の丁寧な口調にホッとしたのか、一時期の家族のことについてはかなり断片的にしか思い出せないことを伝えたら、サラッと「解離だね。しんどかったね。」と言われたのだった。皆そんなものだろうと思い過ごしながらも感じていた違和感に名前がついたことが腑に落ちたが、記憶を解離させるほど辛い環境で過ごしてきたのだと指摘されたのだった。

 

 話が逸れるが家族について書きたい。私は刑事の父、パート勤務の母、9歳上の兄、私という家族構成で育った。私たちが住んでいた場所は、大阪と和歌山の県境にあり、夏になると海水浴に来る人で駅が賑わうが、他の季節は閑散とした田舎町だった。もちろん娯楽と呼べるものはなく、大きなスーパーさえなかった。両親が共働きで鍵っ子だった私は、小学校から帰ると暇を持て余しては兄の部屋に入り浸り過ごしていた。兄は入り浸る私を見つけても追い出すようなことはせず、お気に入りの音楽(奥田民生が好きだった)を聞かせてくれ、スピリッツを読ませてくれた。小学生の私には、正直理解できないものもたくさんあったが、兄から受けた文化的影響は計り知れない。私は兄が大好きだった。

 そんな兄だったが、高校に入学した頃から学校をサボりがちになっていた。家にも夜遅くまで帰って来ず、家族ともほとんど会話をしなくなっていった。厳しい父は、母の教育が悪いとなじるようになった。父は自分の価値観を押し付け、意にそぐわないと酒に溺れて否定の言葉を繰り返すところがあるため、兄の反応や行動も仕方のないことのように今は思う。当時の私は家族が壊れていく様子を蚊帳の外からぼんやりと眺めることしかできなかった。

 

 記憶が特に曖昧なのは、中学に入ってからのように思う。兄が成人してから起こした事件(これについてはいつかどこかでどうにか書きたいと思っている)、家族はその対応に追われる日々だったという事実は理解している。けれど、その頃自分がどう過ごしていたか、兄がどう暮らしていたか、思い出そうとしてもぼんやりとしすぎていて、僅かなことしか思い出せないのだ。

 

 当時のことで覚えていることもある。通っていた学校のミサの光景、部活帰りのバスから見た紀の川が綺麗だったこと、仲が良かった女友達がつぶやいた言葉(あれは呪いだ)、音楽を聴きながら海沿いをよく歩いたこと、テストばかりで遊ぶ余裕ないと言いながら期間中はその時のお気に入りの友達と毎日行ってたカラオケの一室。いろんなことを思い出せるのに、家族についての記憶はどうして少ししかないのだろうか。

 

 兄がいなくなった部屋の仄暗さ。父に罵られ呆然と項垂れる母の背中。父が仏壇の前で泣いていたこと。私が思い出せる、家族についての記憶だ。閉じ込めきれなかった記憶の断片なのだろう。今でも眠る前に暗い部屋にいると、当時の空気感が突然戻ってくることがある。重たく、暗い空気だ。胸が潰れそうになり、手足が感覚を失っていくように遠く感じられてしまう。兄からの電話で体が震え、動悸が起きたりもする。その度に、どうにか好きでいたいという気持ちと、この人を許したくないという気持ちで心が荒む。閉じ込めてたはずの記憶なのに、ほんの少しのことが引き金となって、体や心はいちいち反応してしまう。そんな夜は本当に途方に暮れてしまうのだ。いつまでこういうことが続くのか、もう疲れたな、と思うこともある。少し元気な日は、まだ大丈夫強くならなきゃと思い直す時もある。どうにか折り合いをつけながら生きていくしかないのだ。

 

 そういえば、診察に行った日、担当医はこうも言った。

「例えば、箱に閉じ込めるみたいなものでね。生きるための反応ですよ。」と。

 

私の記憶を閉じ込めている箱は、どんな箱だろうか。

小さな白い箱だといい。開く場所を探しても、開かない箱。

手のひらにのせてみたり、お手玉みたいにポンポン投げてみたりする。赤ちゃんの頭を撫でるように、そっと撫でてみる。冷たいだろうか、それとも暖かいだろうか。想像すると、気持ちが落ち着く気がする。

 

「生きるための反応」という言葉を噛み締める。そうだ、私は生きようとしてきた。

思い出したり、忘れたり、迷ったり、蔑んだりしながら生きようとしてきた。

兄のことも、両親のことも、きっとこれからだって色々あるだろう。その度に、また忘れるのかもしれない。

それでも、私が生きようとしてきたという過去が、今の自分を少し強くしてくれるような、そんな気がするのだ。

 

 

 

眩しさ

今日は朝から子供達が通っている幼稚園の音楽会に出かけた。

長男は年長、次男は年少なので共に舞台に上がる最初で最後の年だった。

この時期に園内で行われる音楽会のために、二ヶ月ほど特訓してきたらしい。長男はのめり込みやすく真面目なため、練習の様子を事細かく教えてくれていた。(ちなみに次男はほとんど伝えてこない。)

 

 昨日の夜中、長男が「お母さん、しんどい」と泣いて起き上がって来たので、嫌な予感がしたが、朝熱を測ったら案の定いつもより熱が高かった。休ませるべきか否か、いつもこういう時に判断に迷うのだが、ゆっくり話をしたら本人から行くという返事が返ってきた。

次男は「おかーさんくる!いええーい」と踊り狂っていたので、同じ腹から生まれていても性格とは不思議なものだと感じてしまう。

 

 なんとか園へ送り出し、いざ本番という時に担任の先生がコソコソと私の席まで来て、長男が大泣きしていると知らせてくれた。緊張してきたと泣いているという。

先生が「まず、来ただけ偉い!」と抱きしめてくれているとのことだったので、わたしはその場に行かずお任せしてみることにした。こういう時、どういう行動が正解なのかいつもわからない。子供を育てるのは親だけではないと思っていて、時には見守りながら距離を置き、親以外の信頼できそうな大人に任せても良いのではないかと感じている。

長男の担任の先生とは、夏以降登園拒否になった際にも足並みそろえて向き合ってきた経緯があり、子供の性格をわかってくれているという安心感があったから任せられたのかもしれない。

 

 演奏が始まると、子供たちが舞台に立って歌ったり、たどただしいながらもピアニカやハーモニカ、木琴など一生懸命に音を響かせていた。その日は雲ひとつないような青空で、きんと空気が澄んでいたこともあって、音がまっすぐ空高く舞い上がっていくような気がした。

緊張しながらも頑張っている姿はとても眩しく、胸を打つものがあった。

 

 体調面を心配していた長男も、無事やり遂げることができた。それを見れただけで、なんだかわたしはほっとして泣きそうだった(午後から発熱したのでしんどかったのだろうと思う)。

次男も、いつもは飄々としているのに舞台に立つと顔をこわばらせて緊張していた。同じ年齢の子達の中にいるとしっかり者になるらしく、頼もしく見えた。こうやっていろんなことを経験しながら、少しずつ大きくなるのだろうね、うんと遠くまでいけばいい、そう思った。